ビキニ事件と原水爆禁止運動(下) 2024.5.15
野口 邦和 原水爆禁止世界大会運営委員会共同代表・会常任世話人
原水爆禁止運動 の誕生
(1)立ち上がった国民
太平洋戦争後の連合国軍占領下の1945年9月19日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は新聞報道を統制するプレスコードを発令した。これによりGHQに対する批判、広島・長崎の原爆に関する報道などが禁止された。プレスコードは52年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効により失効した。そのためプレスコード失効後のビキニ被災事件について、新聞、ラジオなど報道機関は連日大きく報道した。事件を知った国民もこぞって憤怒した。
国民の憤怒を背景に議会の動きは活発で、第五福竜丸被災の第1報がもたらされた2日後の1954年3月18日に神奈川県三崎町議会が原爆使用禁止の決議を採択した。同月27日に焼津市議会、同月30日に世田谷区議会が同様の決議を採択した。これに続き多くの区市町村議会が決議、意見書、声明を発表した。3月30日に東京都議会が意見書を発表したのをはじめ、すべての都道府県議会が決議を採択した。国会は4月1日に衆議院が「原子力の国際管理に関する決議」、同月5日に参議院が「原子力国際管理及び原子兵器禁止に関する決議」を採択した。
諸団体の動きも活発で、日本赤十字社、日本PTA全国協議会、日本哲学会、日本地質学会、日本気象学会など各種学会、全国大学教授連合、日本医師会、日本弁護士会連合会、日本基督教団、日本YMCA、日本YWCA、日本労働組合総評議会(総評)や労働組合、生活協同組合、主婦連合会(主婦連)や地域婦人団体連合会、仏教界など、全国の多くの団体が会合を開いて決議、声明を発表した。11月3日公開の怪獣映画「ゴジラ」は、ビキニ水爆実験を背景に作られた反核ドラマで、映画界からの告発だった。
日本学術会議は4月23日の第17回総会で、「原子力の研究と利用に関し公開、民主、自主の原則を要求する声明」と「原子兵器の廃棄と原子力の有効な国際管理の確立を望む声明」を採択した。前者の声明内容の一部は、翌55年12月19日に制定された「原子力基本法」に不十分ながら取り入れられた。
(2)原水爆禁止署名運動――三つの発展段階
ビキニ事件を契機に始まった原水爆禁止署名運動は3つの発展段階に区分できる。第一段階は1954年4~7月期で、自然発生的地方的な運動いわば「草の根」の運動の段階と位置づけられる。
この時期における優れた運動としてしばしば語られる東京都杉並区の例を紹介する。区内各団体の陳情書が区議会に提出され、「水爆実験を容認せず」の声が日増しに高まる中、5月9日に27団体の代表者38名が参加して「水爆禁止署名運動杉並協議会」が結成された。協議会の議長に安井郁(かおる)杉並区立図書館長兼公民館長が就任し、全区的運動が進められた。同月14日から署名運動は始まり、7月20日までに署名数は27万3916筆に及んだ。これは当時の区民の人口の約7割に相当する。そこには平和を求める区民の熱い思いがあった。
第二段階は54年8月8日に原水爆禁止署名を集約するセンターとして全国協議会が結成されて全国的に原水爆禁止署名が旺盛に繰り広げられ、翌55年1月16日に全国協議会が「原水爆禁止世界大会」の開催を世界に向けて発表した時期である。全国協議会の事務局長には杉並協議会議長を務めた安井郁さん(法政大学名誉教授・国際法)が就任した。全国協議会はノーベル賞受賞者の湯川秀樹など各界を代表する著名な12人の代表世話人、約500人の世話人からなる思想信条を超えた強力な体制だった。結成大会時の署名数は449万余筆と発表されたが、10月5日に1213万筆、10月23日に1413万筆、55年1月15日には2207万筆余に達した。(右写真参照)
第三段階は国際的発展の段階に相当する。国内で繰り広げられていた原水爆禁止署名運動と連携して1955年1月19日、世界平和評議会が「原子戦争準備に反対する世界の世論と行動を結集する」ウィーンアピールを採択し、国内の原水爆禁止署名と並行して国際的にウィーンアピール署名運動が取り組まれた。ウィーンアピール署名は55年8月7日までに全世界で約6億6000万筆余が集まり、それは当時の世界総人口の23・9%に相当した。一方の国内で取り組まれた原水爆禁止署名の集約は、第1回原水爆禁止世界大会開催時の8月6日に3158万筆余、同大会終了時の8月9日には3200万筆に達した。これは当時の有権者数4923万5375人の65・0%、日本の総人口の35・5%に相当する。空前絶後の言葉は、この時の原水爆禁止署名運動にこそ相応しい。
(3)原水爆禁止運動がもたらしたもの
第1は、原水爆禁止運動の高揚は核実験協力・対米従属の日本政府の前に敢然と立ちはだかり、折からの造船疑獄の発覚などにより国民の不信をまねいて国会で不信任確実な情勢となり、第5次吉田茂内閣を1954年12月10日に総辞職に追い込んだ。
第2は、核軍拡競争に立ち向かう日本国民の強固な非核の意志を構築した。第1回原水爆禁止世界大会の成功(海外代表14ヵ国52人、国内2576人、会場に入れなかった人を含めて総数は5000人超)、大会直後の9月19日の原水爆禁止日本協議会(日本原水協)結成、翌56年8月の第2回原水爆禁止世界大会の開催の成功と開催期間中の日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)結成、57年4月1日の原子爆弾被爆者の医療に関する法律(原爆医療法)の施行、さらには58年6月の原水爆禁止国民平和大行進の開始などが例として挙げられる。
第3は、世界的な反核平和運動の出発点となった。ビキニ環礁で行なわれた3月1日のブラボー爆弾の構造を突き止めた日本の科学者(大阪市立大学の西脇安らのグループ、静岡大学の塩川孝信らのグループ、東京大学の木村健二郎らのグループなど)は、第五福竜丸の降灰の放射能分析から大量のウラン237を発見した。西脇安を通じてそれを知った英国の物理学者ジョセフ・ロートブラットが驚愕し、哲学者バートランド・ラッセルと物理学者アルベルト・アインシュタインに働きかけた結果、「存続が危ぶまれている人類、いわば人という種の一員として」平和的手段による紛争解決を訴えたラッセル・アインシュタイン宣言の発表(55年7月)、同宣言を受けて11人の著名な科学者により創設されたパグウォッシュ会議の誕生(57年7月)など、世界的な反戦反核平和運動の新たな出発点になった。
第4は、実際に核兵器使用と核実験を止めた。54年3~5月、ベトナム独立戦争において疲弊・孤立したフランスに対し、米国は2発の原爆をディエンビエンフー付近での使用を提案した。しかし、ビキニ事件を契機とする世界的な反核平和世論の空前の高揚を前に、フランスは米国の提案を退けた。また、世界的な反核世論の高揚の中で、当時の核保有国である米国、ソ連、英国とも核実験を断念した(核実験モラトリアム)。60年2月13日、フランスがアルジェリアで初の核実験を強行したが、他の3ヵ国は核実験モラトリアムを継続した。さらには、63年8月5日の米国・ソ連・英国を寄託国とする部分的核実験禁止条約(PTBT)の調印(発効は同年10月)へと発展した。
80年代、欧米の反核平和運動のスローガンは「核凍結」だった。しかし、広島・長崎、ビキニと原水爆の被害を三度体験した日本の反核平和運動は一貫して原水爆禁止、核兵器廃絶、被爆者援護連帯をスローガンに掲げた。核凍結運動は核軍拡にストップをかける点で一定の役割を果たしたが、核兵器の削減や海外に配備された核兵器の撤去、ましてや核兵器の禁止・廃絶を求めるものではなかった。その後の世界の反核平和運動の本流は、核凍結を乗り越えて核兵器禁止・廃絶を求めることに突き進み、核兵器禁止条約を誕生させた。核兵器の使用に対する唯一の保証は、その完全な廃絶と、二度とそれが開発されないという法的拘束力のある保証であることを肝に銘じたい。
おわりに
今年2月、日本原水協は非核日本キャンペーン(正式名称は「ビキニ被災70年から被爆80年へ―非核日本をめざす全国キャンペーン」、期間は2024年3月1日~25年8月末日)を提唱した。70年前、日本国民はビキニ水爆実験に抗議し、原水爆禁止を求めて署名行動に立ち上がり、今日まで続く原水爆禁止世界大会を誕生させ、広島・長崎の被爆者、ビキニ水爆実験の被害者とともに核兵器全面禁止・廃絶の世界的流れを創り出した。その歴史の教訓を学び、現在の日本政府の安全保障政策を、米国の「核の傘」に依存するのではなく憲法第9条にもとづく平和外交に転換させる運動が非核日本キャンペーンである。同キャンペーンの中で、これまで以上に日本政府に核兵器禁止条約に署名・批准するよう迫っていくことも必要である。原水爆禁止世界大会実行委員会も同キャンペーンを積極的に受け止めて議論し、行動の具体化を始めている。今こそ非核の政府を求める会の出番ではないか。
