中部太平洋での核実験による被害の全容解明と補償を 2025.4.15
野口 邦和さん 元日本大学准教授・常任世話人
◆はじめに
1954年のビキニ水爆被災事件から71年経ちましたが、今日においても太平洋で行なわれた核実験に起因する被害の全容は未解明なままであり、被害者の救済は行なわれていません。
それどころか私たちが忘れてかけていた、広島・長崎・ビキニに次ぐ1958年の海上保安庁の測量船「択洋」と巡視船「さつま」乗組員に関する「第四の被曝」事件の存在をNHK大阪放送局が掘り起こし、それまでに得た取材内容をまとめ、2024年9月15日にNHKスペシャル「“第四の被曝”なぜ夫は死んだのか」を放送しました。放送するや否や視聴者から大きな反響があり、当該番組の制作を主導したチーフ・ディレクターはあまりの反響の大きさに驚いたそうです。このディレクターによれば、放送後に得た取材内容をもとに“第四の被曝”の続編も考えているとのことです。
被災71年2025年3・1ビキニデー集会において、筆者は特別企画「核被害の全容解明、補償と救済、核兵器の全面禁止を求めて」のコーディネーターを務めるとともに、「太平洋における核実験被害の全容解明と補償を」の演題で報告しました。この報告は、主にアメリカが中部太平洋上で行なった核実験について改めて振り返り、日本国政府と加害国政府に対し、被害の全容解明と被災者に対する補償を重ねて要求したものです。
◆太平洋上で行った核実験
アメリカが1945年7月16日にニューメキシコ州で世界初の核実験を行なって以来、核保有国は世界で計2400回を超える核実験を行なってきました。コンピュータ・シミュレーションを駆使した未臨界核実験(臨界前核実験)の技術が確立するまで、核実験(核爆発実験)は核弾頭技術の改良に不可欠の役割を演じてきました。
《イギリス》
イギリスは1957年5~6月に中部太平洋上のモールデン島で3回(総爆発威力1.22 メガトン)、1957年11月~58年9月にクリスマス島で6回の大気圏内核実験(同6.65 メガトン)を行ないました。すべて空中爆発でした。イギリスはもちろんのことフィジー、オーストラリア、ニュージーランドから動員された軍人が実験に参加しました。2002年に日本原水協はフィジーに調査団を派遣し、全日本民医連の医師が健康調査などを行ないました。また、フィジー核実験被曝復員兵士の会の代表が2009年の原水爆禁止世界大会で被害状況を訴えていましたが、遺憾ながら詳細は今も不明な点が多い。
《フランス》
フランスは1966年7月~1974年9月に南太平洋上のフランス領ポリネシアの無人のファンガタオ環礁で4回(総爆発威力3.74メガトン)、同ムルロア環礁で37回(同6.38 メガトン)の大気圏内核実験を行ないました。ファンガタオ環礁では荷船1回、気球3回、ムルロア環礁では荷船2回、空中投下3回、残り32回は気球を用いた実験でした。局地的フォールアウト(放射性降下物)によるフランス領ポリネシア人の集団実効線量は70人・シーベルトと推定されています。このうち67人・シーベルトは人口84000人のタヒチが占めています。また、ムルロア環礁とファンガタオ環礁で計147回の地下核実験(ラグーンの縁の地下約500~1100メートルの玄武母岩で実施)を行なっていますが、詳細は今も不明です。
《アメリカ》
アメリカは中部太平洋上で1946年6月~1962年11月に108回の核実験を行ないました。すべて大気圏内実験(5回の水中実験を含む)に分類されています。内訳はマーシャル諸島のビキニ環礁で23回、同エニウェトク環礁で42回、クリスマス島で24回、ジョンストン島で12回、その他で7回です。クリスマス島の核実験はすべて空中投下、ジョンストン島の核実験は空中投下5回、ロケットを用いた実験7回でした。
アメリカが中部太平洋上で行なった核実験は、原爆(核分裂爆弾)の開発実験も含まれますが、爆発威力が著しく大きいことに特徴があります。原爆の爆発威力は最大でも0.5メガトン(500キロトン)とされていることから、多くは水爆装置(実用水爆兵器となる前段階の核分裂-核融合混成爆発装置)の実験、1954年のキャッスル作戦に代表される実用水爆兵器(核分裂-核融合-核分裂混成爆弾、いわゆる3 F爆弾)の開発実験でした。
アメリカはこれまでに国内外で大気圏内核実験を219回、地下核実験を908回、計1127回の核実験を行なっています。本土内のネバダ実験場で行なわれた最大規模の大気圏内実験は74 キロトン(1957年7月5日 フッド実験)、最大規模の地下実験は104キロトン(1962年7月6日 セダン実験)でした。これを見れば、アメリカは爆発威力の大きな核実験はビキニ環礁やエニウェトク環礁などの中部太平洋上で、爆発威力の小さな核実験はネバダで行なっていたことが分かります。核問題に関して言えば、かなり積極的に核軍縮を進めようとするポーズをとっていることが注目されます。
◆核兵器開発に伴う被害(害悪)の特徴
1995年9月、フランスのシラク大統領はフランス領ポリネシアで核実験を再開する際の理由として、「死活的国益の究極的保護のための核抑止力の維持」などと臆面もなく公言しました。要するに、「国益の保護のために核抑止力の維持は必要である」、「核抑止力の維持とは核兵器開発である」と公言したのです。フランスに限らず、すべての核保有国は同じ考えを共有しています。当然、核兵器開発(核抑止力の維持)は、核保有国にとって「最優先事項」となり、「最高度の軍事機密」の下に置かれて聖域化します。こうした状況下で生ずる被害(害悪)には、次の特徴があります。
①犠牲者・被害者の多くは先住民、少数民族、社会的弱者、核保有国に従属する地域(国)の住民であり、その根底には人種差別などの差別思想がある。
②人権侵害・人命軽視が横行する。
③被害の隠蔽・放置が常態化する。
④被害の範囲・程度の不明なままとなる。
➄深刻な放射能汚染や有害化学物質汚染により甚大な環境破壊が生ずる。
マーシャル諸島で実施された核実験によるマーシャル人の被害はその典型例であり、ここから私たちが学ぶべきことは非常に多い(1954年のマーシャル諸島における水爆実験に起因する局地的フォールアウトや対流圏フォールアウトに遭遇した日本の漁船員の被害は、①~⑤のすべてが該当します)。
◆法的根拠のない占領下と信託統治下での核実験
マーシャル諸島は1944年にアメリカ軍が占領し、1947年に国連がアメリカの信託統治領として承認した地域です。1982年にアメリカと自由連合協定を結んで信託統治領から脱し、1986年にアメリカとの自由連合協定国として独立しました。1991年には国連に加盟しています。
アメリカが核実験を行なった1946~1958年は、アメリカの占領下と信託統治下にあった時期でした。日本に返還前の沖縄では、アメリカの施政権下とはいえ、琉球政府や議会(立法院)の設置など一定の自治が認められていました。しかし、マーシャル諸島で自治政府が発足したのは1979年であり、核実験が実施された当時は返還前の沖縄よりずっとアメリカに従属した地域であったことは想像に難くありません。
アメリカは、占領下にあった1946年に2回の核実験を実施しました。施政権者とはいえアメリカが信託統治領のマーシャル諸島で核実験を行える国際法上の根拠はまったくなく、国連憲章違反の乱暴きわまりないものでした(①~⑤に該当)。信託統治の基本目的は国連憲章で規定されており、非自治地域の独立に向けて「国際の平和及び安全を増進する」「住民の政治的、経済的、社会的及び教育的進歩を促進する」ことなどが謳われているからです。核実験を行なうことは、信託統治の基本目的に逆行する行為です。
しかもアメリカは、ネバダ実験場で最大爆発威力74キロトンの大気圏内核実験しか行なわなかったのに対し、マーシャル諸島では最大爆発威力15 メガトンの大気圏内水爆実験を行ないました。1メガトン以上の大気圏内水爆実験は、実に18回も行なっています。核実験を行なう前に環礁の島民を事前に強制移住させているとはいえ、これはマーシャル諸島島民に対する人種差別以外の何物でもありません(①~⑤に該当)。
◆局地的フォールアウトが増える雨季の核実験
マーシャル諸島での核実験は、キャッスル作戦(1954年の6回の実用水爆実験)以前は4~5月に行なうことが多かったのですが、キャッスル作戦後は5~7月に行なうようになりました。なぜでしょうか。
アメリカ気象局のロバート・リストによりまとめられたDOE(エネルギー省)のNYO-4645レポートは、キャッスル作戦時の6回の核実験フォールアウトを粘着フィルム(大きなハエ採り紙のようなもの)・ステーションによる世界的ネットワークを構築して調査したものでした。NYO-4645の結論は、太平洋上の居住地域の核実験フォールアウトは核実験を雨季に(ほぼ5~10月)に行なうと増え、乾季(ほぼ12~4月)に行なうと減るというものでした。大気圏内核爆発により大気中に放出された核分裂生成物などが降雨地域に大量に降下・沈着することは、広島・長崎の「黒い雨」地域でもよく知られている現象です。太平洋上の居住地域の核実験フォールアウトが増えることは、その分北米大陸での核実験フォールアウトが減ることを意味します。アメリカはNYO-4645の結論を受けて、キャッスル作戦後、太平洋上の居住地域で核実験フォールアウトが増える雨季に核実験を行ない続けました(①~⑤に該当)。
◆ロンゲラップ島民よりアメリカ人の救出を優先
1954年3月1日のビキニ環礁でのブラボー実験当時、同環礁から約210キロメートル東に位置するロンゲラップ環礁ロンゲラップ島には67人の島民(妊婦3人を含む)がいました。ロンゲラップ島の西、ビキニ環礁から150キロメートル東に位置するアイリングナエ環礁シフォ島には19人(妊婦1人を含む)のロンゲラップ島民がいました。実験の数時間後、白い灰(核実験で粉砕された珊瑚礁の微粉末に核分裂生成物などが付着したもの)が降ってきたため、島民は実験の50~58時間後に救出され、3月4日までに86人全員が270 キロメートル南に位置するアメリカ軍クワゼレン基地に収容されました。
一方、ロンゲラップ環礁の東に位置するロンゲリック環礁には28人のアメリカ軍人が気象観測を行なっていました。ここにも白い灰が降ってきたため、8人は実験の22.5時間後、20人は実験の28時間後にそれぞれ救出されました。被曝線量はロンゲラップ島民より低いと予想されたのですが、アメリカ軍人の救出は実に迅速でした。ロンゲラップ島民よりアメリカ人を優先した救出であったことは明らかです(①~⑤に該当)。
クワゼレン基地に収容された3カ月後、ロンゲラップ島民はマジュロ環礁エジット島に移され、アメリカの「安全宣言」によって1957年6月、ようやく250人の島民はロンゲラップ環礁に帰島しました。しかし帰島後、流産や死産、異常児の出産などが相次いだため、1985年5月、325人の島民は先祖伝来の環礁を棄て、自らの意思で無人のクワゼレン環礁メジャット島に移りました。その後、2002年の帰島に向けて1999年にロンゲラップ島中央部の除染(地表を20センチメートル剥がし、外海の珊瑚礁を粉砕した小石で埋め戻すこと)が行なわれましたが、未だに島民は帰島していません。汚染のひどい同環礁の北部の島々はもちろんのこと汚染の低い同環礁の南部の島々を含めて、ロンゲラップ島中央部以外は何も手がつけられていないからです(①~⑤に該当)。
核兵器開発の中で生じる被害は必ず隠蔽され、放置されます。その結果、被害の範囲・程度が不明なままとなります(①~⑤に該当)。嘘偽りなく公表すれば、核兵器開発を進める上で障害になるおそれがあるからです。被害の隠蔽と放置が行なわれている限り、被害に対する補償と救済が真摯に行なわれるはずはありません。
この点は1954年のビキニ水爆実験で被災した漁船員や、1958年7月14日にビキニ環礁で行なった爆発威力9.3メガトンのポプラ実験の局地的フォールアウトに遭遇した海上保安庁の測量船「択洋」と巡視船「さつま」の乗組員に関する“第四の被曝”の場合も同様です。
本来なら国民の安全を守るべき日本政府が、加害国のアメリカ政府の核兵器に依存する安全保障政策を採っているために、アメリカ政府の圧力のままに「政治決着」(法律上の責任問題と関係なくアメリカ政府が200万ドルを慰謝料として日本政府に支払い、これがビキニ被害に関する最終解決であると両国政府間で確認したこと)し、被害の解明と日本の漁船員の被災者救援の責任を放棄したことは、政治の重大な怠慢です(①~⑤に該当)。
“第四の被曝”事件は、1960年の日米安保条約改定を目前に控えた1958~59年、日米安保体制の堅持を優先させた日本政府とアメリカ政府が協力し、「択洋」と「さつま」乗組員の被曝事件が大きく広がらないように巧みに情報操作を行なったものでした。この事件もまた政治の重大な怠慢以外の何物でもないでしょう(①~⑤に該当)。
◆おわりに
1985年8月、西ドイツのリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領は、「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となります」という有名な演説を行ないました。過去に行なった負の遺産に誠実に向き合うことなく目を閉ざす者(国)は、再び同じ過ちを繰り返す危険があることを警告したものです。
太平洋上で行われた核実験による被害を振り返る時、私たちは、被害を引き起こした加害国政府が過去の負の遺産に誠実に向き合ってビキニ被災の全容を明らかにするとともに、被災者に対する補償と必要な救済措置を採るよう要求します。また、唯一の戦争被爆国でありながらアメリカの核抑止力に依存する安全保障政策を採っている日本政府に対して、被害を隠蔽・放置し、全容解明の姿勢を放棄してきた過去と誠実に向き合い、ビキニ被災の全容を明らかにし、被災者に対する抜本的な補償と必要な救済措置を早急に採るよう要求します。間違った過去の愚行に目を閉ざし、再び同じ愚行を繰り返してはなりません。
私たちは、核保有国政府と核依存国政府の首脳が核抑止力に依存する安全保障という誤った考えを放棄し、核兵器禁止条約に参加する道を選択するよう呼びかけます。私たちは被曝80年となる8月の原水爆禁止世界大会を成功させ、2025年を核兵器廃絶への転機とするため、国連、諸国政府、世界の反核・平和運動との共同と連帯を心より呼びかけます。
