原爆投下正当化論を振り返る
山崎正勝東京工業大学名誉教授
トルーマン大統領は、広島に原爆を投下した直後に、ラジオ放送で世界に向けてメッセージを発信しました。そこでは、戦争の苦悶を早く終わらせるために何千、何万ものアメリカの若者の生命を救ったと言います。上陸戦をしないで、原爆を投下すると日本人がたくさん亡くなるけれども、上陸戦では遥かにたくさんのアメリカの若者の生命が失われるだろうと。これが基本的にアメリカの原爆投下の正当化論の原点です。
マサチューセッツ工科大学学長のカール・コンプトンは、1946年に『アトランティック・マンスリー』誌に「私は原爆の使用がアメリカ人と日本人双方の数十万人、おそらくは数百万人の命を救ったと完全な確信を持って信じている。それが使用されなかったら、戦争は何ヶ月も続いただろう」と投稿しています。
もっとも有名な原爆正当化論は、第2次世界大戦当時の陸軍長官のヘンリー・スティムソンが1947年2月の『ハーパ―ズ・マガジン』誌に書いた記事で、上陸戦を実施するとアメリカ軍だけでも100万人以上の死傷者を出すだろうと自分は告げられていた、敵の損害は遥かにそれ以上であったであろう、だから、10万人規模の原爆被害者は上陸戦を行ったときよりも遥かに小さいと主張しました。
その後、トルーマンは『回顧録』で、本土上陸では50万人の米国民の生命を犠牲にしたと述べました。いずれも、実際には行わなかった上陸戦での死傷者の数です。これが本当なのかが議論になっていきます。
原爆投下正当化論への歴史家の疑問ー作られた正当化論
最初にアメリカでこの問題に疑問を呈したのは、スタンフォード大学の歴史学教授のバートン・バーンスタインで、1986年に『ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ』誌の短い記事で、アメリカ人の命が救われたというのは神話ではないかということを言います。バーンスタインさんは、陸海軍の合同戦争計画委員会が1945年6月15日に作った報告書を見つけます。上陸戦の予想で、死者4万人、負傷者15万人、行方不明2500人。死傷者は19万人です。死者は4万人で、50万と4万ですから10倍以上違います。ついで1993年に『ディプロマティック・ヒストリー』誌に、詳しい分析結果を掲載し、上述のスティムソンらの発言の裏で何があったかを追跡しています。その過程の重要人物は、ハーバード大学学長のジェームズ・コナントでした。彼は、米国の科学動員の中心組織だった科学研究開発局の局長で、マサチューセッツ工科大学の元工学部長だったヴァネバー・ブッシュの同僚で、同局長の代理を務めた人物です。
コナントが当惑したのは、原爆投下に対する米国内の批判の動きでした。1946年3月に連邦プロテスタント教会の宗教者の集まりがあり、広島・長崎の原爆投下は「道徳的に弁護の余地がない」と主張されます。前年の秋に原子核物理学者のレオ・シラードたちが無警告投下に反対したことを公表し、それが新聞に載せられて広くアメリカ国民に知られるようになりました。それを受けた形で宗教者が抗議をすることになります。原爆投下は、戦争の勝利には不要で、戦争の期間は短縮されたかもしれないけど代償が大きすぎたと言われます。
ついで『時間が残っている間に』という本では、「合衆国は原子兵器でかつてない大量殺戮を行った最初の国家としての道義的な責任がある」ということが言われます。
さらに、ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』という本の書評が1946年9月に『サタデー・レビュー・オブ・リテラチャー』誌に出ますが、広島・長崎の犯罪に対してアメリカは責任があると言われます。国民がこの問題を考える休日をつくる必要があるのではないかとまで書かれます。アメリカ人の多くは、広島と長崎の人たちが癌にかかってどんどん死んでいくことを知らないのではないかとも言っています。
コナントは一連の批判的な言動が生まれてきたことを見て、これに反撃します。教育者でもあったコナントは、批判的な意見が次の世代に影響を及ぼしていくと、若い人たちが原爆投下を批判的な目で見始めるのではないかと懸念し、コンプトンやスティムソンに投下の経緯を書くように依頼しました。その結果でき上ったのが、前述の記事だったのです。しかし、スティムソンの執筆の助手を務めたマクジョージ・バンディは、スティムソンがどのくらいの期間、死者はどのくらいかと自問し、その時に100万人という数字が浮かんだらしい、今、その数を実証できる事実は何もないと、後に語っています
100万人という数字は、何を根拠にしたのか今でもわからないというのが、実証的な研究をしているアメリカ人たちの理解になっています。アメリカ側が理解していた原爆による死傷者は、広島と長崎を合わせて20万人ぐらいです。かつて西島有厚さんが『原爆はなぜ投下されたか』で述べたように、原爆投下の正当化のため、この数字より多い数字を掲げたというのが、本当のところではないでしょうか。
ドイツ原爆の危機が去っても続けられた計画
科学者の多くはドイツに原爆が先にできてしまうことを恐れたと言われています。しかし、マンハッタン計画を指揮したレスリー・グローブス将軍は、1944年1月の手紙で、ドイツの原子兵器の使用はありそうにないとしていました。科学者の観点からは、この段階で原爆開発を進める必要がないと判断してもよさそうだと思うのですが、この情報は科学者に徹頭徹尾秘密にされたのです。戦後にパグウォッシュ会議の会長を務めたジョセフ・ロートブラットは、グローブスが1944年の春に、原爆をつくる本当の目的はソ連を抑えることだと語ったと1985年に書いています。ドイツの原爆計画は大規模に展開されていないことを知っていたにもかかわらず、グローブスはソ連を次の敵として考えて、原爆計画を途中でやめることはなかったのです。
アメリカの中には、原爆計画が止められなかった理屈として、200億ドルものお金を使ったのだから、原爆を使用しないわけにいかなかったという議論があります。しかし、1944年1月の段階で、ヨーロッパからの情報を受けてマンハッタン計画を止めていれば、その段階で使った費用は20%以下なので、惰性で落とさざるを得なかったという議論は避けられたと思います。
