ビキニ事件と原水爆禁止運動(上) 2024.4.15
野口 邦和 原水爆禁止世界大会運営委員会共同代表・会常任世話人
はじめに
ビキニ事件から70年経った今日においても被害の全容は未解明であり、被害者の救済も行なわれていない。ビキニ事件を契機に巻き起こった原水爆禁止運動について改めて振り返るとともに、「核兵器のない世界」の実現、日本政府が核兵器禁止条約に署名し批准するために何をすべきかを考えたい。なお、この小論は今年2月28日に静岡市で開催された原水爆禁止世界大会実行委員会主催の「ビキニ水爆被災70年シンポジウム」における筆者の報告「ビキニ事件と原水爆禁止運動」をもとに執筆したものである。
キャッスル作戦とブラボー実験
1952年11月1日、米国はアイビー作戦のマイク実験(爆発威力10.4メガトン)で液体重水素を用いた多段階式(核分裂-核融合)爆発装置を用いた最初の水爆実験を、マーシャル諸島エニウェトク環礁で行なった。装置の高さは6.1メートル超、重量は63.5トン超(この他に10.9トンの冷却装置)あり、まさに実験装置そのものだった。1953年8月12日、ソ連は最初のブースター爆弾RDS-6(同0.4メガトン)の実験を行なった。ブースター爆弾は真の水爆ではなかったが、ソ連の誇張した外交宣伝によって米国は、実用水爆開発でソ連に遅れをとったと誤認した。
このため米国は、原爆開発で実績のあるロスアラモス国立研究所(LANL)と1952年に設立されたばかりのローレンス・リバモア国立研究所(LLNL)に、運搬可能で兵器化された実用水爆開発を急ぎ競わせた。1954年3~5月のキャッスル作戦は、LANLとLLNLが開発した6種類の異なる実用水爆の実験のために計画された。LANLとLLNLの水爆開発競争の中で、重水素化リチウムを用いる乾式水爆が生まれた。私たちは実用水爆兵器(核分裂-核融合混成爆弾)の開発後にその発展型として3 F爆弾(核分裂-核融合-核分裂混成爆弾)が開発されたと考えがちだが、実用水爆兵器は最初から3 F爆弾だった。3 F爆弾は、引き金となる第1段階の核分裂、第2段階の核融合、第3段階のタンパーの核分裂からなり、大量の放射性物質が生成する非常に「きたない」爆弾である。
マーシャル諸島など中部太平洋上の島々に四季(春夏秋冬)はなく二季(乾季と雨季)のみで、乾季(12~4月)に大気圏内核実験を行なうと降雨が少ない分フォールアウトが格段に減る。一方でそれは、北米や中米などでフォールアウトが増えることを意味する。核爆発で生成する放射能総量は変わらないからである。反対に、雨季(5~11月)に大気圏内核実験を行なうと降雨が多い分フォールアウトは格段に増える。一方でそれは、北米や中米などでフォールアウトが減ることを意味する。
米気象研究所のロバート・リストを責任者として取りまとめられた報告書「キャッスル作戦における世界的なフォールアウト」(NYO-4645)により、この事実が実測データにより確認された。しかし、米国はキャスル作戦後も雨季にマーシャル諸島などで大気圏内核実験を行ない続けた。これはフォールアウトによるマーシャル諸島など中部太平洋上の島々の住民の放射線影響を軽視した米国政府の考えを明瞭に示したものである。 原子放射線の影響に関する国連科学委員会2000年報告書によれば、米国がこれまでに行なった大気圏内核実験数は計197回、総爆発威力は計153.8メガトンになる。大気圏内核実験数の51.3%、総爆発威力の99.2%は米国本土外のマーシャル諸島(ビキニ環礁とエニウェトク環礁)、ジョンストン島、クリスマス島で行なわれた。マーシャル諸島など中部太平洋上での大気圏内核実験は、これらの地域に居住する人々に犠牲を強いるものでしかなかった。
ビキニ被災事件と賠償請求権を放棄した日本政府の対応
3月14日に第五福竜丸が焼津に帰港した時、軽重の差はあれ23名の乗組員全員が急性放射線障害の症状を呈していた。乗組員は同月17日より焼津協立病院に入院し、その後同月28日に東京大学医学部附属病院に7人、国立東京第一病院に16人が転院して治療を受けた。9月23日に国立東京第一病院に入院していた重症患者の一人で無線長の久保山愛吉さん(40)が急性放射線障害により亡くなった。
被災した魚船は第五福竜丸を含め、1954年12月末までに政府指定5港(塩釜、東京、三崎、清水、焼津)に入ったものだけで403隻。指定5港外で453隻、計856隻、廃棄漁獲量は計12万9532.5貫(約486トン)とされている。1955年1月以降も被災船は入港していたはずであるが、日本政府は追跡調査も救済措置もいっさい行なわなかった。水産庁は2015年2月21日までに、「ない」としながら保持していたビキニ被災資料を初めて日本共産党の紙智子参議院議員に提出した。この資料によれば、被害を受けた漁船の総数は1423隻になる。
1954年当時の日本人の食生活は、食肉は庶民の口にほとんど入らない贅沢品で、魚肉が日本国民の主な蛋白源だった。マグロ、サメ、カツオなどの魚が汚染されたことは、国民を恐怖させた。魚だけではない。5月14日以降、日本全国に人工放射性能雨が降り注ぎ、野菜、果物、茶葉、家畜、牛乳などを汚染させ、大きな衝撃を与えた。各地で1ℓ当たり数千~数万カウント毎分(cpm)の人工放射能雨が観測された。当時は水道が普及しておらず、井戸水や雨水を直接、飲用水にしていたところも少なくなかった。人工放射能雨からは核分裂生成物のジルコニウム95、ストロンチウム89、バリウム140、ヨウ素131などが検出された。
当時の米国政府の対応は、①ビキニ被害に対する補償のため200万ドルを法律上の責任問題と関係なく、慰謝料として日本政府に提供する、②日本政府が前記200万ドルを受領する時は、日本政府が有するすべての請求に対する完全な解決として受諾する、ものと了解するというものであった。これに対し日本政府は、①提供された前記の金額を受諾する、②米国政府の前記の了解が日本政府の了解でもある、とする発表を1955年1月4日に行ない、重光葵外相とジョン・M・アリソン駐日米大使との間で交換公文を取り交わした。
要するに、米国側が補償する200万ドルは法律上の責任問題とは関係なく、慰謝料として支払い、これがビキニ被害に関する日米間の最終的解決であると両国政府間で確認したのである。日本政府は米国の責任を免罪し、賠償請求権を放棄したといってよい。これに先立つ1954年4月9日に日米協会で、吉田茂内閣の岡崎勝男外相は、米国に対し核実験を中止するよう要求するつもりはない、核実験は自由諸国の安全保障にとって必要である、核実験の成功を確保するため自由諸国と協力する、とする演説さえ行なっている。
こうした日本政府の姿勢は、サンフランシスコ講和条約により米国への賠償請求権を放棄し、広島・長崎の被爆者を見捨てたのと酷似している。
