「核抑止」論批判の視点について 2025.1.15
小沢隆一さん 東京慈恵会医科大学名誉教授・会常任世話人
はじめに
核兵器禁止条約(以下TPNW)の署名国、批准国の広がりが示すように核兵器廃絶への展望が開かれつつある中、「核抑止」論にしがみつく核保有国とその影響下にある国と、この「核抑止」論を批判し克服する国と市民社会との間の理論的対決軸がますます明らかになりつつある。この「対決軸」をより一層鮮明にすることで、核兵器にすがる勢力を孤立させる必要がある。2025年3月に予定されているTPNW第3回締約国会議では、「核抑止」論の克服が重要議題の一つとなる。原水爆禁止2024年世界大会の国際会議宣言では、この「核抑止」論の克服に、「市民社会として、積極的に貢献していかねばならない」としている。同感であり、本会の活動を通じて私もこれに貢献したいと思う。そのための私なりの「核抑止」論批判のいくつかの視点を示すことで議論に供したい。
1.「核抑止」論の非論理性について
「核抑止」論とは、「対立する核保有国間において、核兵器による報復の意思と能力を信憑性をもって相手国に伝達し、それを認識させることが、互いに核兵器の使用を意図的に躊躇する状況を作り出し、結果として重大な核戦争または核戦争につながる全面戦争が回避される、という考え方」とされている。ごく簡単にいうと、「核で核の使用を制する」との論である
しかし、この論には、次のような疑問が即座に生じる。核兵器使用の意思と能力を信憑性をもって示すということは、核の脅威を極限まで押し上げることで可能となる。現実味のない核使用の意思表示は、威嚇としての意味を持たない。「核抑止」論が言う「核兵器による報復の意思と能力を信憑性をもって相手国に伝達」することとは、ようするに、いわゆる「寸止め」のことである。
だとすれば、これは核兵器使用のリスクを限りなく高める政策ということになる。核兵器の使用を想定しなければ成り立たない議論なのである。「使用しないために、使用可能性を極限まで押し進める」、こんな矛盾に満ちた非論理的な議論はほかにあるだろうか。
A・クメント氏は、原水爆禁止2024年世界大会でのあいさつで、「核抑止は、脆弱で不安定な心理的構造をしています。核抑止が与える安全感・安心感は偽りです」と述べているが( 『原水爆禁止2024年世界大会の記録』(以下『2024大会の記録』)70頁)、私は、この彼の言葉を、以上のような意味合いが込められていると受け止めた。
そこで、「核抑止」論のこうした非論理性をはぎ取って、その本質的意味を探ると、見えてくるものは、次の一言に尽きる。
「核抑止は、いざとなればヒロシマ・ナガサキを再現するとの、脅しであ(る)」(原水爆禁止2024年世界大会国際会議宣言 『2024大会の記録』2頁)。
「 『核抑止』論は『核威嚇』論(核脅し論)以外の何ものでもありません」(同世界大会での木戸季市氏の報告 『2024大会の記録』13頁)。
核の脅しが、その現実的使用につながらない保証はどこにもない。それどころか、脅しを追求するかぎり現実の使用の危険性を高めるだけのことである。「核抑止」論は、根本的に非論理的な論である。
2.「核抑止」論の神話性について
こうした非論理的でつじつまが合わない「核抑止」論を、多くの国や人々が信奉しているという状況は、神話がまかり通っているという状況に似ている。神話は、それが誤りであることが事実をもって証明され、そのことについて人々に広く知られることによって「迷信」であることが明らかとなる。「核抑止」論は、そうした性格を神話と併せ持っていると思う。
クメント氏は、先に紹介したあいさつで、「核抑止力が本当に機能するかどうかは、決して知ることができませんが、核抑止が失敗することがあることは確実に分かっています」と述べている。この言葉の意味を私なりに敷衍すると、次のようになる。「核抑止」論の真偽性は、それが破綻するまでは証明されない。核兵器が使用されない状況が続く限り、それが「核抑止」の効果なのか、それとも「核兵器を使うな、廃絶せよ」との声が強くて使用できないのか、明証的に決定することができないからである。その間は、神話としての「核抑止」論は堂々とまかり通ることになる。「核抑止」の神話性が暴かれて「迷信」に転化するのは、それが事実をもって破綻することによって、すなわち核兵器が使用されることによってである。
こうしたことは、「帝国軍隊不敗神話」や「原発安全神話」などと同様の構図である。旧統一教会による霊感商法による被害も、「セールス・トーク」の神話性によって引き起こされているといえる。アメリカの反核理論家W・ウィルソンは、「核抑止」論のこうした神話性を「火山の乙女」(ある宗教指導者が火山を鎮めるために乙女を火山に放り込み、噴火がないことをもって乙女の犠牲は効果があることの証明だと言い張ること)に例えている(ウォード・ウィルソン 黒澤満監訳『核兵器をめぐる5つの神話』法律文化社・2016年100頁以下参照)。神話は、それが人々に信じられている限り悲劇を生み続けることがある。人類の歴史は、今では「迷信」の類とされているもの(盟神探くがた湯ち-熱湯に手を入れさせて犯罪者かどうか判定する方法、決闘神判、ガリレオ裁判での天動説、魔女伝説など)に満ちあふれている。マックス・ヴェーバーは、近代化の意義を「魔術からの解放」と説いた。
私たちは、「核抑止」論の「魔術からの解放」、すなわちその神話性に負けない認識力を鍛える必要がある。それは、日々出回っている様々なフェイク・ニュースに惑わされない力を持つのと同じことである。私たち核兵器に反対する勢力が、核兵器の使用を許さずにそれを押しとどめている限り、「核抑止」論は、先の「火山の乙女」の話と同様に、どんなに馬鹿げた非人道的な主張でも、神話として生き残りつづける。それゆえ、それを圧倒する認識の力と世論の大きさが求められるのである。
3. 「核抑止」論の誤謬の数々について
前回の1では、「核抑止」論が意味することは、本質的には「核による威嚇(脅迫)」であって、核兵器の使用、すなわち核戦争の危険性を増大させること、2では、「核抑止」が核戦争を防止するというのは「神話」にすぎないことを論じてきた。今回は、そうした「核抑止」論が、いろいろなところに綻びがあり、その点からも信頼するに足らない議論であることを明らかにしてみたい。
(1)いわゆる「核テロリスト」について
よく言われることだが、「核抑止」論は、核テロを企むテロリストには効き目がない、すなわち役に立たない。「核抑止」論は、核兵器による報復に脅威を感じる相手、すなわち自国とその国民に責任を負う国家に対してこそ、有効に働くことが想定されているのであって、そうした責任を負わないテロリスト(集団)には、のれんに腕押しで、通用しない。イギリスの反核活動家であり理論家のR・グリーンは、「テロリストたちを核兵器によって抑止することはできない」と述べているが、その中で、「自己破壊を決意している敵を何者も抑止できない」というキッシンジャーの言葉を紹介している(ロバート・グリーン 大石幹夫訳『核兵器なき安全保障へ』(かもがわ出版・2010年)133頁以下参照)。「核抑止」論の信奉者にとって、そうした「ならず者」による核テロへの恐怖は相当のものであるに違いない。自らの理論の破綻を実証するのであるから。
ところで、北朝鮮は、しばしば「ならず者国家」と目されることがあるが、その核ミサイル政策は、思うに「自国の存続」を最優先の目標として組み立てられていると見られることから、北朝鮮とテロリストを同一視することは適切でないと、私は考える。それでも国家破綻の危機に瀕した場合には、「核抑止」は効かないことはありえよう。ウクライナを侵略したロシアも、「自国の死活的利益」が害される場合には核使用も辞さないとのドクトリンを繰り返している。最近でも、非核保有国に対する核使用を公言している。「核抑止」が有効に機能しない核兵器保有主体は、核兵器を確実に管理・使用する能力を持たない(持つことに極めて多くの障害がありすぎる)「非国家主体」としてのテロリスト(集団)よりも、核保有国である可能性の方が、現実的に考えると高いと思われる。いわゆる「核テロリスト」論は、核兵器保有主体の状況次第では、「核抑止」が効かなくなる場合があることの一つのわかりやすい(しかし少々極端な)例として理解したい。
(2)偶発的な核戦争の危険性
「核テロリスト」論よりもはるかに現実味を帯びているのが、核兵器の事故や偶発的な誤射による核戦争の危険性である。「核抑止」論は、核による威嚇を行うが、それは自国の存亡がかかった決定的瞬間での全面核戦争の恐怖を相手に植え付けることで、その目的を果たそうとする。そして、その「瞬間」まで核兵器は確実に管理されなければならない。それも「警報即時発射」の態勢をとりながらである。さらに、核兵器は、自国をも破滅に追いやる全面核戦争の形では決して発射されてはならないのである。これらがいかに実現困難な課題であるかは、原発でトラブルが頻発し、チェルノブイリやフクシマなどの過酷事故が起きていることからも類推ができるし、また、現にアメリカに限っただけでも、核兵器の事故は繰り返されている。これについては、アメリカのジャーナリスト、エリック・シュローサーの著作『核は暴走する』(布施由紀子訳 上・下 川出書房新社・2018年)が詳しい。
こうした「核事故」のリスクの極めつけは、スタンリー・キューブリックの映画「博士の異常な愛情」(1964年)が描いた誤認・誤報に基づく偶発的な核戦争の勃発の危険性である。「核抑止」論者は、当然それを未然に防止する策を講じていると主張するだろうが、それも「勃発」しないかぎりでの、2で指摘した「神話」の語りにすぎないと思う。
この「偶発的な核戦争」のリスクは、「核のボダンにかかっている指」の数やシステムにも依存する。指を多くすることはセーフ・ガードの役割が期待されているだろうが、核攻撃の開始に決定権限をもつ政府首脳や軍幹部に対する敵の「斬首攻撃」によって報復攻撃が機能不全に陥るのを回避しようとすれば、現場への「権限移譲」の誘惑は避けられない。このことについて、昨年6月に惜しまれながら亡くなったD・エルズバーグ氏は、「世界は、一人の無責任な、無謀な…指導者の指の心配ばかりしているが、ボタンの上にあるのが、…そうした指導者の一人のためにはるか遠くの前哨基地で働く、多くの官僚の一人の指であっても何の不思議もない」、と的確にも指摘している(ダニエル・エルズバーグ 宮前ゆかり/荒井雅子訳『世界滅亡マシン』岩波書店・2020年346頁)。
(3)核拡散の誘発
これも「見やすい道理」だが、「核抑止」論が主張する「核で核戦争を制する」との理屈を素直に受けとるならば、核兵器保有国の増大、すなわち核拡散の誘惑は避けられない。それは、「核攻撃を阻止する決め手は、核保有だ」と公言してはばからないのであるから。現在の日本政府は、「核抑止」論を受容しつつ、アメリカの「核の傘」の下に入る「拡大核抑止」を選択するがゆえに自前の核武装はしない(核を作らず、持たず)との理屈に立っている。かくして、「核抑止」論は、核不拡散防止条約(NPT)がもつ「負の側面」とも言うべき「現核保有国による核独占」の身勝手さを弁解の余地なく浮きぼりにする。これは、NPT体制の根本矛盾とでも言うべきものである。
2003年にNPTからの脱退を宣言して核兵器開発に乗り出し、現在までのところ核保有国の「9番目の最後の一員」となっている北朝鮮は、その動向を見るにつけても、「核抑止」論の最も深刻な虜であり、かつそれを最大限効果的に利用している国といえる。こうして「核抑止」論は、NPTで核保有を認められた国とNPTに反して(これに加盟せず)核を保有している国の双方に、その政策の正当化根拠を提供しており、核保有国がこの理屈にしがみつく限り、NPT6条がうたう「核軍縮条約」についての「誠実な交渉」はおよそ期待しがたい。
ひるがえって、こうした核保有国まかせでは一向に進展しないNPT6条に基づく「交渉」を一歩でも前に進めるために、その外側から人道的アプローチに依拠して核兵器禁止条約(TPNW)を締結して核保有国に核軍縮を迫るという政策は、すぐれて現実的であり道理があるということである。この「道理」については、クメント氏の邦訳近著『核兵器禁止条約』(古山彰子・林昌宏訳 白水社・2024年)が、TPNW誕生の経緯を丹念に紹介しながら、説得的に論じている。まさしく、「道理は『核抑止』論にではなく、TPNWにあり」である。
来年3月開催予定のTPNW第3回締約国会議では、「核抑止」論の克服が重要議題の一つとなる、とのことである。大いなる期待を胸に同会議を待ちのぞむとともに、その成功を祈念したい。
4.「核抑止」論の非人道性について
核兵器それ自体が、無差別に大量の人々に被害をもたらす非人道的な兵器であることは、論をまたない。1996年の国際司法裁判所の判決、TPNWとその取り組みなどは、いずれもこの核兵器そのものの非人道性の認識に基づいている。ここでは、そうした核兵器の脅威を相手の攻撃を封ずる手段として用いようという「核抑止」論の非人道性について論ずる。「核抑止」論には、「核兵器の非人道性」、すなわちそれが使用された際の被害の非人道性とは別に、その論に固有の「非人道性」が潜んでいると考えられる。
なお、「核兵器の非人道性」は、このたび日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が、ノーベル平和賞を受賞したことによって、ワールド・ワイドの「常識」であることが、さらに確固としたものとなった。被団協をはじめとして多くの被ばく者の人々が、被ばくによる傷と病いとの長く苦しい闘いを励まし合いながら続けて声を挙げ、核兵器廃絶による平和の実現を目指して「核兵器の非人道性」を訴え続けてきたことの偉大なる成果である。このように「核兵器の非人道性」は、世界の人々の同意と共感をかち得ているのに対して、「核抑止力」論の「非人道性」は、それに比して思いのほか人々の中に浸透していないように思われる。
「核抑止」論は、核兵器の脅威を振りかざして相手国と自国に住む人々(とりあえず「人民」と呼ぶ)の双方を、いわば「人質」に取り合うようなものである。「この人々の命が惜しければ、こちらを攻撃するな」というメッセージを送り続けるものなのであるから。国家権力が、「人民」の命とくらしを「人質」にして、その政策を推進することは、非人道的というほかない。いわゆる社会契約論に基づいた場合、人々はそのようなことまで、国家権力に託しているとは到底考えられない。
アメリカ合衆国憲法は、「われら合衆国の国民は、…正義を樹立し…われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、…この憲法を制定し、確定する」と、社会契約論をベースにしているかのような前文をもつ。そのアメリカ合衆国が、「人民」を「人質」にとる核政策を推進するのは背信である。R・オッペンハイマーが、1945年10月25日にトルーマン米大統領に面会した際、「私の手が血で汚れているように感じます」と言ったのは、この「背信」に気づいたからではなかったか。大統領は、「二度と会いたくない」と彼を遇することになる(このやりとりについては、カイ・バード+マーティン・シャーウィン 河辺俊彦訳『オッペンハイマー 下』PHP・2007年54頁以下参照)。
「核抑止」論は、軍事戦略としてだけでなく、政治戦略としての性格をあわせ持っている。しかも、人民の命とくらしを犠牲にして推進される政権の延命策としての性格を濃厚にもつ傾向にある。北朝鮮の核政策にその性格は顕著に現れていると思う。これは、人民の期待を裏切る政権の所業である。私は、これはまさに、「核抑止」論の非人道性の証しだと考える。
アメリカ政治学会会長も歴任した、国際政治学者R・ジャーヴィスの最近邦訳された(原著は1989年刊)著書、『核兵器が変えた軍事戦略と国際政治』(野口和彦ほか訳・芙容書房出版・2024年)は、核兵器で威嚇しあう「超大国同士」は、「不本意ながら相手国に『人質』を与えていることになる」と語る(同書21頁)。一応、「核時代というのは、人質の価値のほうが紛争で争われる価値よりも大きいという点で特殊であ」るとの指摘を忘れてはいないが、論述の文脈全体は、軍事戦略における人質の効用を説くものになっている。こうした議論が堂々とまかり通るところに、軍事力にたよる思想の恐ろしさ、すなわち非人道性を思わざるを得ない。この思いは、2022年10月のハマスの襲撃をきっかけにした、ガザ、ヨルダン川西岸から、レバノン、イランへと拡大し、中東全域を巻き込みかねない現在のイスラエルの軍事攻撃を見るにつけ、深まらざるを得ない。
5.「拡大核抑止」について
次に、いわゆる「拡大核抑止」(以下では「拡大抑止」と併用)と、それが固有にかかえる問題点について論じてみたい。「拡大核抑止」とは、核保有国が、第三国から同盟国に対する武力攻撃を抑止するために、核で報復をするとの威嚇することであり、「核の傘」とも呼ばれる。2024年7月28日に開催された日米安全保障協議委員会(日米「2+2」)は、共同発表で「米側は、核を含むあらゆる能力を用いた日米安全保障条約第5条の下での日本の防衛に対する米国の揺るぎないコミットメントを改めて表明する」として、「拡大抑止」に関する初めての閣僚会合となった。
この「拡大抑止」には、これまでに述べてきた「核抑止」論の問題性に加えて、それ独自の問題性が含まれている。「拡大抑止」は、もともと核保有の国が有する軍事力に非保有国がたよるという政策であるから、「核の傘」の下に入る国は、核保有国に依存し引きずられた従属的な関係だというニュアンスが伴いがちだが、そうではなく、そうした国の行動や姿勢が、核保有国自体の「核抑止」の問題性をより一層増幅させるという性格をもっている。「拡大抑止」の危険性に対して、非保有国は重い責任を有しているのである。
(1)先制核攻撃を自明視する拡大核抑止
「拡大抑止」は、同盟国に対する核攻撃の抑止を目的として、核による威嚇をするのであるから、核保有国それ自体が、核攻撃の危険にさらされなくても核使用を、すなわち「核の先制使用」を準備しておくことになる。そうでなければ、同盟国は安んじて「核の傘」に入ることにならない。「拡大抑止」は、保有国の立場を基準にした場合、核の先制使用を自明視するものであり、同盟国は、核保有国にそれを約束させることに固執することになる。それが明確にあらわれたのが、アメリカのオバマ政権が2016年に「核先制不使用宣言」を検討したものの断念した際のことである。同盟国の一部が、中でも特に日本が反対したことが「断念を決定した理由だった」と、当時の米国務省で核不拡散担当だったトーマス・カントリーマン元国務次官補が語っている(東京新聞2021年4月6日東京新聞)。なお、ジャーナリストの太田昌克は、2016年当時での日米両政府高官への取材に基づいて、高官らの名を伏せながら、日本側が当時の安倍首相も含めて米の「核先制不使用」に対して反対であったことをリポートしている(太田昌克『偽装の被爆国 核を捨てられない日本』岩波書店・2017年20頁以下参照)。アメリカが「核先制不使用」宣言に踏み切れないことへの、同盟国日本の責任は重大である。
核兵器の使用に関しては、国際司法裁判所が1996年7月8日に下した勧告的意見において、「核兵器の威嚇または使用は武力紛争に適用される国際法の規則…に一般的には違反するであろう」としながらも、「国家の存亡そのものが危険にさらされるような、自衛の極端な状況における、核兵器の威嚇または使用が合法であるか違法であるかについて裁判所は最終的な結論を下すことができない」と判断した。要するに「一般的には国際法違反、国家の存亡が関わる自衛の際については、判断できない」という意見である。この意見に照らすならば、核保有各国に「核先制不使用」を宣言させて、自国の存亡に関わる自衛の場合だけに核使用を封じ込めることが、すぐにでもできそうなものである。ところが、核保有国の同盟国などが絡む「拡大抑止」にまで話が広がると、「核先制不使用」宣言は徹底した抵抗に遭い、阻止されてしまうのである。「拡大抑止」に固有な弊害というほかない。
かくして、「拡大抑止」は、核保有国にとっても「厄介な存在」である。このことについて、前述のグリーン(本稿「中」参照)は、次のように述べている。「ここ(拡大核抑止戦略-小沢挿入)にある危険なジレンマは、いわゆる『核の傘』を非核保有の同盟国に提供する国家は、それ自身の安全が直接脅かされていないのに核使用に引きずり込まれるリスクを冒すということだ」(ロバート・グリーン前掲書122頁)。
結局のところ、「拡大抑止」は、世界の圧倒的多数の国や市民社会が、TPNWを通じて核保有国を孤立させて核兵器廃絶への道を歩ませようとしているのに対して、これを妨害する強力な援軍を核保有国に提供する役割を果たしている。「核の傘」の下にある国は、このことについて責めを負うべき立場にある。
(2)拡大抑止の克服は日本の固有課題
私は、オバマ政権による「核先制不使用宣言」の阻止のために体を張った日本の外交官(…がいたはずである)は、まるで、ナチス・ドイツにおけるA・アイヒマンのような存在だと考える。アイヒマンは、イスラエルでの裁判でユダヤ人のホロコーストに関わった自分の行為を「命令に従っただけ」と述べたが(ハンナ・アーレント『エルサレムのアイヒマン』大久保和郎訳 みすず書房1994年参照)、H・アーレントは、これを「悪の陳腐さ」と評している。日米両政府が「拡大核抑止」を確固たる政策として掲げる以上、外交官が「核先制不使用宣言」に反対することは、自らの職務に忠実かつ明晰であることの証である。
実際に、前掲の太田昌克の著書『偽装の被爆国』では、「〔そんな政策を〕なんで日本が受けなきゃならんの。ノーベル賞を取って(オバマ氏のノーベル平和賞受賞のこと・小沢挿入)何もできていないからといって……」という日本の政府要人の言葉を紹介している(太田前掲書52頁)。今の日本の政府関係者や外務省官僚などの全体の「気分」を代表する言葉のように聞こえる。このように、同盟国を巻き込んだ「拡大抑止」論は、ある意味では核保有国自体の「核抑止」論よりも手ごわい相手であり、その克服という課題は、核大国アメリカの同盟国としての日本がとりわけ重く担うべきものと言えるだろう。
(3)同盟のジレンマ=リスクを増幅させる拡大抑止
ここまで論じてきたことから推測できるように、「拡大抑止」論は、主として軍事同盟関係にある核保有国と非保有国の間で成り立つ理屈である。そうであれば、「拡大抑止」は、いわゆる「同盟のジレンマ」ないし「同盟の二つのリスク」を共有していることになる。
この「ジレンマ」ないし「二つのリスク」とは、「巻き込まれの危険=リスク」と「見捨てられの危険=リスク」のことである。前者は、同盟国の行動により望まない紛争に「巻き込まれる」懸念のことであり、この場合は、核保有国と非保有国のいかんにかかわらず起こりうる事態である。一方、後者の「見捨てられ」の懸念は、基本的に同盟におけるジュニア・パートナーの側、すなわち核非保有国の側に生じる懸念である。
軍事同盟関係を結ぶ場合、この二つのリスクをしっかりと計算に入れなければ、賢明な安全保障政策とはいえない。日米安保体制について言えば、米軍の日本駐留の目的を「極東における国際の平和と安全の維持に寄与するため」とする安保条約6条(極東条項)によって、日本が自国と関わりのないアメリカの戦争に「巻き込まれるではないか」というのが、安保条約の廃棄を求める勢力の重要な根拠の一つであり続けている。それは、いわゆる「台湾有事」を口実とする日米の軍事行動とそのための軍事態勢、とりわけ沖縄や南西諸島における米軍や自衛隊の基地の強化に対する批判としても重要な視点である。
また、ウクライナは現時点ではNATOの加盟国ではないが、2022年からのロシアによるウクライナ侵略とそれに先立つ2014年のクリミア併合は、ロシア・プーチン政権による「ウクライナのNATO加盟に対する予防戦争」としての意味付けが仮に与えられるのであれば、ウクライナは、二つの軍事ブロック間のいさかいに「巻き込まれた」といえるかもしれない。この間、プーチン大統領は、当初の独立を宣言したウクライナ東部4州に対する集団的自衛権の行使だと、侵略を正当化していたが、最近では、「これは、NATOとの戦いだ」としきりに強調している。これらの主張はいずれも失当であり、それでロシアの攻撃の侵略性を打ち消せるものでは決してないが、それでも、プーチンの頭の中では、「NATOのウクライナへの拡大の脅威」が被害妄想として膨らんでいたとしても、それは何ら不思議ではない。軍事同盟とそれに取りつかれた者の宿痾とでもいえようか。
一方、「見捨てられ」の懸念については、日本政府は、尖閣諸島への中国の軍艦等の接近が繰り返されるたびに、アメリカに対して、「尖閣諸島は、安保条約5条の『日本の施政の下にある領域』に含まれる」との明言を求めてきた。しかし、同5条に基づく共同対処としての武力行使は、「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」なされるのであるから、アメリカが、日本の辺境の無人島の防衛に集団的自衛権としての武力を行使するとは、よほどのことがない限り望むべくもないといえよう。すなわち、これは、「日本が中国との間で独自に解決せよ」と「見捨てられ」るリスクが濃厚なケースである。そして、アメリカではなく日本だけが他国から攻撃された時に、「拡大抑止」の約束を守って核兵器を使用することは、従来からアメリカとヨーロッパの間で言われてきた「パリを守るためにニューヨークを敵の攻撃にさらすのか」という問いかけに、「そうだ」と答えることを意味する。「東京を守るためにアメリカ全土を敵の攻撃にさらすのか」という問いかけに対して、米政府と国民は、はたしてどう答えるだろうか。いずれにせよ、「拡大抑止」とは、ようするにそういうことなのである。
このように考えると、「見捨てられるリスク」は、古代ギリシャ、アテナイのトゥキディデスが語る「アテネとスパルタ」のペロポネソス戦争という昔話だけではなく、現在の同盟関係の中にも実際に伏在していると見ることが適当である。そして、「拡大抑止」が、核兵器の使用を想定する同盟関係であるならば、同盟の「ジレンマ」ないし二つの「リスク」は、核兵器とは関わりのない同盟関係よりもはるかに現実のものとなる蓋然性が高いものであると覚悟しなければならないだろう。「拡大抑止」にたよることは、決して安心を供与するものではないのである。
むすびにかえて-「日米核軍事同盟」からの脱却を
日本が、アメリカとの間で日米安保条約を結び、その下でのさまざまな「密約」によってアメリカの核戦略に従い、後押しをしていることは明白である。故上田耕一郎氏が「日米核軍事同盟」(上田耕一郎『日米核軍事同盟』新日本新書・1986年参照)と呼んだ日米の軍事同盟関係を安保条約10条の手続きに基づく条約の廃棄によって解消すること、そして安保条約に代わる軍事的性格を持たない日米友好条約を締結することは、核兵器の廃絶を実現する上で日本に課された固有の責務ともいうべきものである。そうした展望のもとに「核抑止」論への批判とそれについての幅広い合意形成に努めていきたいと思う。
