核被害の記憶を繋いでいく
見えないものを可視化する責任を果たす   2025.4.15

小山美砂さん(ジャーナリスト・元毎日新聞記者)に聞く

 国によって切り捨てられてきた「黒い雨」の被爆者。「黒い雨」による被ばくと裁判の全容を明らかにした『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行した小山美砂さん。毎日新聞社を退社して、フリーのジャーナリストして広島を拠点に核被害の取材を続けている小山さんに話を聞きました。

――「黒い雨」とのかかわりについて聞かせてください。
 大学3年生のとき、爆心地の近くで被爆した方が、「ピカッと光ってドーンなんてものじゃない、ゴーという地響きぐらいの衝撃があった」と証言しているのを聞き、爆心地に近い方の被爆証言が大事だと思っていました。2017年に毎日新聞に入社して記者2年目で「黒い雨」訴訟の担当になりましたが、原告のいた場所は爆心地から8~30㌔と遠くて被害は「軽い」と思い込んでいました。
 記者3年目の秋に転機がありました。一つは、広島に応援取材に来てくれた先輩記者から「黒い雨は取り残された最後の問題やぞ」「目の前にある黒い雨やらないといけんじゃろ」と言われたことです。もう一つは、「黒い雨」訴訟の中で、裁判長の指示で原告全員の診断書を取り寄せたら1人を除く84人の原告全員が厚生労働省の症例で原爆放射線との関係が否定できない病気になっていたんです。私もびっくりして、遠くて大したことはないと思っていたのに、原告全員がこんな病気になっている、影響ないとは言えないと思ったんです。それで「黒い雨」訴訟の原告で「黒い雨」の被爆者の声を聞いてきた高東征仁さんに会いに行きました。
現地で聞く被爆者の声
 現場に行くのはめっちゃ大変です。爆心地から20キロとか離れていて片道1時間ぐらいかかる。遠くて大変だけど現場に行ったら、国が言っていることの非科学性が、〝川ひとつ隔てて雨の降り方が変わるわけがない〟〝この川を越えたら放射能がなくなるのか〟ということがリアルにわかります。私が話を聞かせてほしいと言うと被爆者のみなさんが「聞いてくれてありがとう」「関心を持ってくれてありがとう」と、逆に感謝していただくことがあります。そのときにどれだけこの人たちの声が聞かれてこなかったのかと思って、私も「黒い雨」を知りながら現場に行かず声を聞いてこなかったことを反省しました。

――長崎の被爆体験者も重視されていますね。
 毎日新聞社を退社するのが2022年12月31日なんですが、有給休暇消化中の年末から長崎に通い始めました。実際に話を聞いたら、本当に同じ内部被ばくに苦しんでいるし、制度的にも二重三重の差別を受けているんです。長崎には第1種特例区域、第2種特例区域があって、第2種の区域にいた人が被爆体験者と呼ばれている人たちなんです。その区域は放射能の影響はないと断定されていて、どれだけ病気になっても精神的なトラウマのせいだと言われたんです。それが爆心地から半径12キロで、広島は「黒い雨」訴訟で勝って30キロ、40キロぐらいまで「被爆者」に認められているんですけど、長崎の場合は12キロ圏内でも認められていません。
 昨年5月に広島と長崎で「黒い雨」を救済しようという目的のリレーシンポジウムを開きました。お医者さんや弁護士、大学教授、私の6人ぐらいで実行委員会を作り、同じ内容を両方の場所でやって、当事者もオンラインで繋いで全体で250人ぐらい参加してくれました。毎日新聞社を退社するのが2022年12月31日なんですが、有給休暇消化中の年末に長崎に通い始めました。実際に話を聞いたら、本当に同じ内部被ばくに苦しんでいるし、制度的には長崎の方がひどく、二重三重の差別を受けているんです。長崎には第1種特例区域、第2種特例区域があって、第2種の区域にいた人が被爆体験者と呼ばれている人たちなんです。その区域は放射能の影響はないと断定されていて、どれだけ病気になっても精神的なトラウマのせいだと言われたんです。それが爆心地から半径12キロくらいで、広島は「黒い雨」訴訟で勝って30キロ、40キロぐらいまで認められているんですけど、長崎の場合は12キロで精神的なせいだというのがずっと残っているんです。
 昨年5月に広島と長崎で「黒い雨」を救済しようという目的のリレーシンポジウムを開きました。お医者さんや弁護士、大学教授、私の6人ぐらいで実行委員会を作り、同じ内容を両方の場所でやって、当事者もオンラインで繋いで全体で250人ぐらい参加してくれました。
立ちはだかる「戦争被害受忍論」
1980年の「原爆被爆者対策基本問題懇談会」の答申が、戦争被害はすべての国民が受忍すべきという戦争被害受忍論を打ち出し、そこで被爆区域の拡大は科学的合理的な根拠がある場合に限るとしました。その中で被爆者だけは放射線を受けているから特別だというので援護している。だから日本政府は、基本的に広く救済するという立場に立っていない、戦争の被害として原爆被害を受け止めていないと思うし、そもそも戦争被害をちゃんと補償する、償って謝っていく姿勢がないのが根本的にあるという気がします。

――セミパラチンスクにも行かれましたね。
 「核政策を知りたい広島若者有権者の会」(カクワカ広島)と「ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト」(ヒロセミ)が、今回の核兵器禁止条約(TPNW)第3回締約国会議の議長国がカザフスタンだから誰かカザフスタンに派遣しようと話し合っていて、私にお声がけをいただきました。それでカクワカ広島とヒロセミ、私で、「核禁条約をすすめるヒロシマ・カザフスタン実行委員会」を立ち上げて、カザフスタンの現地取材、全国キャラバンを通じて核兵器禁止条約を広めていくプロジェクトを始めたんです。
 9月にセミパラチンスクに行きましたが、とくに印象に残っているのは、マイラさんです。母親と2人の姉と弟、夫をみんなガンなどの重い病気で失い、自分もうつ病になった方です。いろいろ調べていくうちに、今のカザフスタンの核実験被害者を援助するための法律が被害者のためになっていないと気がつく。一括補償金の額は半額以下に減り、医療費は原則無料なのですが、私立のクリニックとか高度医療を受けたい人への支援がない。彼女は、新しい法律を作れと活動を始めました。直筆の署名を5万筆集めたんです。セミパラチンスクの人口は32万人なので、この数はすごく大きな被害者の声だと思ったんです。そういう歩みが日本被団協と重なると思いました。現地出身の通訳の女性が、核実験場の跡地閉鎖から30年経ってようやく被害者として訴えられるフェーズに入ってきたとすごく喜んでいました。
 こうした動きはちゃんと伝えたいし、日本からもサポートできるんじゃないかと思っています。

――「ヒロシマ・カザフ実行委員会」の全国キャラバンはいかがでしたか。
 9月末に広島で報告したのを皮切りに長野や東京、大阪、三重、長崎など全国19ヵ所(オンライン含む)で行い、約925人の方に参加いただきました。すごく面白くてキャラバンがキャラバンを呼ぶんですよね。三重がめちゃ面白くて、たまたま大阪の会に私の父親の知り合いが来てくれて、すごく感動したと言って自分が住んでいる三重でもやりたいと。友だち同士で声をかけて農家さんとかが集まって、核の問題にこれまで関心がなかった人、イベントも初めてというお母さんたち、40代ぐらいの女性たちが開いてくれました。セミパラチンスクの核実験場の跡地はまだ放射線量が高いんです。日本でも公衆被ばく線量約年間1ミリシーベルトと決められていますけれど、それに換算したら8倍から9倍ぐらいの線量がまだ残っているんです。通訳さんが「大地がかわいそう、こんなに痛めつけられて」と言っていたと紹介したら、農家の方は本当に土を大事に考えているから、泣きながら聞いてくれた方がいたんですよ。それまで核の問題は遠い問題だと思っていたけれども、自然が破壊される、自分が大事にしているものが奪われることに引きつけて考えたみたいで、本当に関心が持てたと言ってくれました。

――広島で活動されての思いはいかがですか。
 広島の人たちには「大阪から移住してきて広島のために本当にありがとう」って言われます。私は広島のためにやっているつもりはまったくなくて、世界的な問題だと思っているし、自分の問題だと思っているのです。
 最近報道で気になるのは、被爆者の方が少なくなって運動の担い手もいなくなる中で被爆2世、3世に期待するみたいな論調が増えていることです。
 私は、身内に被爆者はいないし、大阪出身だし、ゆかりもないけど、私自身の問題だと考えています。「黒い雨」の裁判もサポートをさせていただいていますし、かかわりがないからこそ同じような人にも伝えられるんじゃないか。黒い雨の被爆者でも、自分の息子や娘には話せないけれど、あなたには聞いてもらいたい、残してもらいたいという人もいるわけです。やはりいろんな人がかかわって、この記憶を残していく、繋いでいくことが大事なんじゃないかと思います。私にとって「黒い雨」訴訟は、何か見えにくくなったものとか、聞こえにくいものにちゃんと目を向けなきゃいけないと思わせてくれた裁判だったんです。
 ただ一方で、ご家族にしかできない活動もあるとは思います。子や孫の立場で見つめてきた被爆者の姿、自身が二世三世として感じてきたことは、彼らにしか語り得ません。私はそういったお話にも、耳を傾けていきたいと思っています。

――日本被団協がノーベル平和賞受賞して、被爆80年を迎えました。
 ノーベル平和賞受賞には本当にびっくりして、良かったなと思いました。日本被団協の草創期の人たち、広島だと森滝市郎さんとかいろいろ立派な先人の人たちとバトンを繋いだ先にある受賞なんだと思いました。
 ただ一方で、被爆者という言葉が新聞とかいろいろなところに出てくるんですが、被爆者として認められていない原爆被害者を取材しているから、取りこぼされている方々の存在がやはり気になります。喜んでばかりはいられない。ただこの機運をうまく使わないといけないと思っていて、被爆80年、ノーベル平和賞というときに、今も残された課題にこそ目を向けないといけません。原爆投下から80年は、「核の時代」の幕開けから80年でもあるわけです。広島、長崎だけでなく、ビキニや福島で、今、どんな問題があるのかをちゃんと可視化する。それを明らかにしていくことが、今年の目標です。